福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第3編
隠蔽されたこと、被曝、事故の始末。
福島の25年後が透けて見える。
放射線量は正常値の数千倍に達していました。
しかし、汚染の激しい地域でも、
当局は祭典への参加を奨励します。
1986年のメーデー祭典の写真です。
当時のウクライナの書記長も孫を連れて式典に参加しました。
社会的混乱を避けようとしたのでしょう、
しかし、我々は事態をあまりに過小評価していました。
この祭典で被爆した子供の数は分かっていません。
ウクライナの書記長はその後自殺しました。
原子炉は爆発寸前の巨大な原子爆弾と化していました。
爆発の規模を試算したところ、3〜5メガトンに相当するという結果が出ました。
福島とチェルの相似点はいくつも。。
次の事故が起る前に原発はやめた方がいい。
引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
テロップ書き起こしby lituum
チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (3_7)
予定どおりメーデーの祭典が行われましたが、
まるで悲劇から目をそらしているかのようでした。
国のそのような態度が問題でした。
放射線量は正常値の数千倍に達していました。
しかし、汚染の激しい地域でも、
当局は祭典への参加を奨励します。
1986年のメーデー祭典の写真です。
私自身も参加して、この目でパレードを見ました。
あれは文字どおり死の行進だったと言えるでしょう。
なぜかウクライナの公文書館にこの日の記録はありません。
コスティンの写真がすべてです。
当時のウクライナの書記長も孫を連れて式典に参加しました。
社会的混乱を避けようとしたのでしょう、
しかし、我々は事態をあまりに過小評価していました。
この祭典で被爆した子供の数は分かっていません。
ウクライナの書記長はその後自殺しました。
事故から1週間後の5月2日
原発から7キロ圏内に住む市民が避難を開始。
その後、30キロ圏内に避難命令は拡大されました。
避難者数は合計13万人すでに大半が被爆していました。
汚染地域 ウクライナと白ロシアの広大な地は
数日で無人地帯と化しました。
土地に根付いていた歴史や文化はわずか数日で
見えない脅威により葬り去られたのです。
放射能汚染は戦時以上に過酷な状況を人々に強いました。
戦争なら敵兵や兵器が肉眼で確認出来ますが、放射能は見えません。
宙を漂うだけです。
しかし、密かに体に入り込み、
長い時間をかけて、いのちを奪います。
これほど恐ろしい相手はいませんよ。
放射能を含んだ雲は欧州全域を漂いました。
セシュウム137とヨウ素131の雨がフランス南部とコルシカ島に降り、
各地の農作物や牧草は深刻な放射能汚染の被害を受けます。
さらに、英国からギリシャにまで雲は広がりました。
一方、事故現場では放射線量がさらに上昇
6000トンの砂とホウ素を投下したものの、
炉の底では放射性物質がなお高温を保っていました。
5月5日
ゴルバチョフは私的な要請として、初めて西側の専門家を招きました。
国際原子力機関(IAEA)の事務局長ブリックスです。
上空から炉を視察した印象は?
真上から事故現場を見ましたが、
まだ少し煙が出ていることが確認できました。
まず、2次爆発が起る可能性を検討しました。
モスクワを訪れた時に、友人から電話が入ったのを覚えています。
「2次爆発があるといううわさは本当なのかね?」とね。
砂に覆われた炉の底では
195トンの燃料がその後も高温で燃え続けていました。
建物の表面にはひびが入り始めます。
砂をまいて炉を覆ったことにより、
結果的に内部の温度がさらに上昇し続けていました。
これが2次爆発の誘因となることを何より恐れていました。
もし、そうなれば、待っているのは大惨事ですからね。
コンクリート床に熱でひびが入ればそこから放射性物質が漏れ出します。
床下には初期の消火活動での水が残っていました。
放射性物質と水が接触すれば
さらに大規模な爆発が発生する恐れがありました。
対策を練るため選りすぐりの専門が呼ばれました。
核ミサイル開発担当のV.ネステレンコ(Vassili Nesterenko Nuclear Physicist)もその一人です。
溶解物の量は1400キロ程度です。
しかしそれがひとたび水に接触すれば、
大爆発が起きてしまいます。
原子炉は
爆発寸前の巨大な原子爆弾と化していました。
爆発の規模を試算したところ、3〜5メガトンに相当するという結果が出ました。
もし現実にそんな爆発が起きれば、欧州全域が人間の住めない環境になります。
2度目の爆発が起きれば、大惨事です。
絶対に避けなければなりませんでした。
広域が壊滅状態に陥ります。
2次爆発による大規模な衝撃波と大量の放射線は数時間で数千人の命を奪うはずです。
キエフやミンスクゴメリでは避難活動に備えて列車や1000台近くのバスが待機していました。委員会は2つの緊急処置を講じる決定を下しました。
一つは軍所属の消防隊に残った水を排水させること。
この兵士たちは生涯放射線病を患うことになりました。
もう一つは、
炉心の温度を下げるために、
2日間で2400トンの鉛を原子炉に投下するというものです。
鉛を投下するとすぐに炉の温度は下がり、
同時に溶けた鉛が亀裂を塞ぎ放射能量も低下しました。
しかし、鉛が蒸発すれば大気を汚染します。
後年この鉛が原因による疾患も報告されました。
現在も批判の声はあります。
しかし、
あの状況では他に策がなかったのです。
兵士だけでなく民間人も自らを省みず、事態の収拾に努めました。
私は彼らの行為を実際に目撃していたのです。
あの時、活躍した人々こそが真の英雄でしょう。
この作戦に参加した6000名のパイロットは大量の放射能を浴び、
現在まで生存している者はいません。
その後も火災は収まりませんでした。
上空からでは完全に消火できません。
なにか、別の方法で現場に近づくしかありません。
5月11日
2次爆発の危険はなおも消えずにいました。
青写真を検討したところ、配線用トンネルで炉下へ行けると判明。
すぐに、専門の技術者が現場に送り込まれます。
トンネルの一部は壊れていました。
バーナーで壁を焼き切りながら、
放射能検出器と温度計カメラを携えて前進します。
4号炉の下に達した時、
計器は天文学的な放射能値を計測しました。
溶融物はセメントのひびから流れ落ちていました。
非常に危険な状態です。
炉の下にたまっていた水はすでに抜いてありました。
しかし、2次爆発の可能性は依然として残っていたので、
放射性物質の漏れを完全に防ぐ必要がありました。
もし溶融物が砂質の地盤を突き抜ければ、
ウクライナ全体の水源である広大な帯水層の一部と接触します。
最も恐れたのは
放射性物質が地下水脈に達することでした。
まずプリピャチ川が汚染され、
すぐにドニエプル川や黒海さえも被害を被るはずだからです。
それだけは避けねばなりませんでした。
人命を犠牲にしても、効果的な対策が必要でした。
事故から17日目の1986年5月12日
チェルノブイリから1000キロ離れたツーラの炭坑を政府幹部が訪ねました。
原発事故の説明を受けた後、
炭坑労働者が必要なので旅行の準備をしろと言われました。
そして、翌日チェルノブイリに、送り込まれたんです。
(Vladimir Naumov Miner from Toula)
到着当日から作業が始まりました。
(つづく)
( )は注釈です。
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チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (3_7)
チェルノブイリ原発事故の放射能汚染による被爆者と石棺までの動画
社長のブログ http://shachoublog.net/nyu-su/cherunobuiri-douga.html より
7編あります。順次UPの予定です。
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きれいな元画?見つけた。こちらは10編。
3/10 http://www.youtube.com/watch?v=_L4IX6X14IU&list=SPABE2AE88CAC68D82
2/10 http://www.youtube.com/watch?v=4pxIFjcC3YU&list=SPABE2AE88CAC68D82
1/10 http://www.youtube.com/watch?v=dGZg9oAnc9I&list=SPABE2AE88CAC68D82
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1.福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ
第2編 http://lituum.exblog.jp/20378293/
第1編 http://lituum.exblog.jp/20372694/
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追加)2013.8.2 チェリノブイリを チェルノブイリに用語統一。
2014.6.8 誤字訂正
by setonokaze | 2013-05-03 17:10 | チェルノブイリ

