カテゴリ:チェルノブイリ( 6 )

 

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第7編 完

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べだ。

隠蔽されたこと、被曝、事故の始末。
福島の25年後が透けて見える。

フランスは放射能を含んだ雲が自国を通過したことすら
認めなかった。
ドイツが脱原発に舵をきったのと、対局の国に
フランスがなった元因なのでしょう。
チェルノブイリの悲劇は
二度と繰り返してはならないのです。

だが、
この国は、福島原発の事故を、
もう、過去のこと、
なかったことにしようとしています。
悲しいこと。   

何度事故を起こせば
気づくのでしょう。


福島とチェルの相似点はいくつも。。
チェルとの相違点でなく、
相似点に気づかれたのなら、
一歩も二歩も前進出来る。

次の事故が起る前に原発はやめた方がいい。

引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   テロップ書き起こしby lituum

チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (7_7)

数字の操作は西側にもありました。
1986年8月末 (Vienna IAEA Headquarters )
事故を検証する初の国際会議が報道陣などを入れない
完全な非公開の形で開かれました。
ロシア側の責任者は事故処理の責任者レガソフでした。
我々は国際原子力機関にすべてを報告するようレガソフに命じていました。
彼が明かした内容は会場に大きな衝撃を与えました。
レガソフはこの事故で被爆した人々のうち4万人が
ガンで死亡するだろうと結論づけたのです。
しかし西側諸国はこの数を受け入れようとはしませんでした。
あれは広島の原爆から試算した理論上の数値にすぎません。
単純に広島の被爆量と犠牲者数の割合を基にして、
チェルノブイリのケースに当てはめただけにすぎないのです。
しかし放射能の被害規模はそれほど簡単に算出できるものではありません。
結局会議が終わる頃には4万人という数字は4000人に減っていました。
2005年9月にはやはり犠牲者は4000人と公式発表されます。
また、フランスは放射能を含んだ雲が自国を通過したことすら
認めませんでした。
「現在の風向きは?」
「こちらに吹き込んでいないので、放射能の雲は来ません」
「心配は無用です」
「まったく問題なく…」
しかしフランスでは放射能の影響と考えられる甲状腺ガンが近年報告されています。
チェルノブイリ原発事故では放射性物質の他に
人々を苦しめたものがもう1つあります。
複数の国による虚偽の発表です。
ソ連を始めとする数国がついたウソが世界を混乱に陥れたたんです。
 事故から2年後の1988年4月27日
国際原子力機関に真実を訴えたレガソフが自殺します。

爆発により上空に放たれ、広範囲に拡散した放射性粒子は
その後も大地を汚染し続けました。
20年後の今もチェルノブイリには人が住めません。
放射性核種は5年間で土中に5センチ沈むとされます。
つまり今は20センチ沈んでおり、植物を汚染し続けるのです。
( General Nikolai Tarakanov Acadeician )
除染するには土をすべて掘り出して、密閉容器に入れる必要があります。
そんなことは現実には不可能です。
ウクライナ、ベラルーシなどの汚染地域には800万人が住んでいます。
彼らは20年間汚染された食品を摂取し続けてきました。
この問題は1986年の国際会議ですでにソ連が指摘しています。
ミンクスの病院では2002年までに
1152人の子供が甲状腺ガンの手術を受けました。
しかしこうした例の世界的な統計はありません。

Y・バンダジェフスキー博士は
放射能と疾患の関連性について研究してきました。
しかし1996年論文を発表すると、別件で逮捕され、
5年の懲役刑を宣告されました。
自宅軟禁下にある彼から話を聞きました。
(Yoouri Bandazhevsky Anatomopathologist )
妊娠中の母体が被爆すると胎児に悪影響が及びます。
眼球の欠損や頭蓋骨の奇形など何らかの障害を持って生まれてくるのです。
彼は妊娠中のメスのハムスターに放射性物質を与え生まれてくる子供への影響を調べました。
実験ではメスのハムスターにセシュウムを含む餌を与え続けたんです。
すると、そのメスが産んだ子供のほとんどに先天的な異常が確認されました。
実験開始からわずか2週間後のことです。
そのあっけなさに身の毛がよだちましたよ。
チェルノブイリで原発事故が起きてからは
妊娠中絶を選択する親や流産するケースが急増しました。
ハムスターの子供の例と似た先天性異常が認められる人間の子供も誕生しています。
ベラルーシやウクライナでは多くの子供が放射能汚染に怯えています。

1993年ゴルバチョフはNGO団体を設立。
“国際緑十字“と呼ばれるこの団体は原発事故の被害者への支援を行っています。
また、原発事故で汚染された地域に住む若者に対し、
放射能に囲まれた環境で生きる知恵を教えています。
放射性物質の危険は何百年も先までなくなりません。
キリストが復活してもおかしくないほどの歳月ですよ。
人類は事故から学んだ多くの教訓を
今後の世界のために活用すべきです。
世界各国が科学技術のノウハウを惜しみなく提供し合って、
核に代わる安全なエネルギー源を開発するべきです。
たとえ憎むべき人物でもあんな体験はしてほしくはありません。
チェルノブイリの悲劇は二度と繰り返してはならないのです。

(The Zone Chernobyl 2 )
ここは事故現場から10キロほどの汚染エリアの中心部です。
かって米国のミサイル監視に使われたレーダーが
ここにはまだ残っています。
核軍縮が進んだ現在、このレーダーは使用されていません。
核兵器の使用は必ず悲惨な結末を招きます。
たった1基の原子炉の事故でさえ、いまだに癒えぬ傷跡を残せるんですからね。
広島と長崎の原爆と同じように、人類につらい後遺症を残しました。
核をコントロールするのは極めて困難です。
ソ連のミサイルSS-18は
チェルノブイリの爆発の100倍の破壊力を持っていました。
私たちはこの恐るべき兵器を2700基も有していたのです。
もしこれが米国に放たれていたら、恐ろしい結末が訪れていたでしょう。
チェルノブイリの原発事故は
核エネルギーを人類が制御できなかった実例です。
私たちはこの教訓を生かして、核兵器を永久に放棄するべきです。

源発事故の1年半後、ゴルバチョフは中距離ミサイル全廃を決断します。
そして、約10年後には、国連で包括的核実験禁止条約が採決されました。
事故を境に、世界は核の削減に向かったのです。
あの事故がきっかけで米ソ両国を含む全世界が
核という名の火山が噴火した時の恐ろしさを知りました。
そして、ひとたび噴火すれば世界は破滅しかねないこともね。

20年を経た今、教訓は風化しかけています。
しかし石棺の中の大量の放射性物質は消えません。

(November 2005 The Sarcophagus )
2000年チェルノブイリ原発は全面的に稼働を停止しました。
事故から20年が経った現在も石棺付近の方斜線量は
正常値の100倍に達し、周辺の環境を汚染し続けています。
石棺も老朽化が進みました。
過去に修復にかかわった作業員は3000人に上ります。
石棺は30年後に立て直す計画で設計されました。
その頃には放射線量が下がると考えられたためです。
現在も放射線量は高いままです。
(Lev Bocharov Sarcophagus engineer )
それにウクライナには立て替えの資金はありません。
石棺を覆う高さ108メートルの構造物は10億ドルの建設費が必要だと試算されています。
資金調達のためブリックスは国際基金を設立しました。
着工はまだですが、完成は2年後を目指しています。
新たなシェルターが完成すれば
(Hans Blix Director-IAEA )
新たなシェルターが完成すれば、内部に残った核燃料の回収作業も出来る予定です。
炉心の地下14メートルに残る溶融物はこのままでは今後もずっと周囲の環境を汚染し続けます。
当面は石棺が崩壊しないことを神に祈るしかありません。
内部にはまだプルトニュウムが100キロも残されています。
(Vassili Nesterenko Nuclear Physicist )
これは1億人分の致死量です。
プルトニュウムの場合、放射能の強さが半減するまでに、
2万4000年かかります。
つまり人類にとっては半永久的な脅威といえます。

今日、人類は依然として、核エネルギーを利用しています。
今後、化石燃料に代わり核燃料の利用が進むようであれば、
チェルノブイリに並ぶ大規模な源発事故がおこるかもしれません。
もし核エネルギーへの依存が避けられないのなら、
それに対する危険を十分に理解するべきです。
未来の世代に破壊の危険を受け継がせてはなりません。

        ( 終 )

チェルノブイリ (連鎖爆発阻止)の闘い7 7 
(注意:バンダジェフスキー博士の所での画像に衝撃を受けるかもしれません。ご留意下さい。)

チェルノブイリ原発事故の放射能汚染による被爆者と石棺までの動画
社長のブログ http://shachoublog.net/nyu-su/cherunobuiri-douga.html より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当ブログ
7編あります。

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 
第1編 http://lituum.exblog.jp/20372694/
第2編 http://lituum.exblog.jp/20378293/
第3編 http://lituum.exblog.jp/20381544/
第4編 http://lituum.exblog.jp/20389517/
第5編 http://lituum.exblog.jp/20394600/
第6編 http://lituum.exblog.jp/20400205/
第7編 http://lituum.exblog.jp/20406238/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
きれいな元画?見つけた。こちらは10編。

1/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=dGZg9oAnc9I&list=SPABE2AE88CAC68D82
2/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=4pxIFjcC3YU&list=SPABE2AE88CAC68D82
3/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=_L4IX6X14IU&list=SPABE2AE88CAC68D82
4/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=SxTaGihu4kU&list=SPABE2AE88CAC68D82
5/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=5-LcjVRGIws&list=SPABE2AE88CAC68D82
6/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=gNXX6U95CpA&list=SPABE2AE88CAC68D82
7/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=l7mzoKLIvP8&list=SPABE2AE88CAC68D82
8/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=gT_Oqba3aNM&list=SPABE2AE88CAC68D82
9/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=GrcUveeiL6k&list=SPABE2AE88CAC68D82
10/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=UHi0rPJYy5c&list=SPABE2AE88CAC68D82
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追加)2013.8.2 チェリノブイリを チェルノブイリに用語統一。

  by setonokaze | 2013-05-08 08:12 | チェルノブイリ

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第6編

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べだ。

隠蔽されたこと、被曝、事故の始末。
福島の25年後が透けて見える。

チェルノブイリシンドローム
心臓や胃、肝臓や腎臓それに神経系など、
体の随所に異常が現れる。
大量の放射線を浴びて、体中がおかしくなってしまった。
除染作業者のほとんどが元の生活には戻れず、
死を免れても、健康を損なったせいで仕事が出来なかった。

当局は
国民に対し、ウソの発表をしていた。
「まったく問題ない」と
公式発表では犠牲者は59人のみ。

福島とチェルの相似点はいくつも。。




次の事故が起る前に原発はやめた方がいい。

引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                         テロップ書き起こしby lituum

チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (6_7)

室内に戻ると、まるで吸血鬼に血を吸われたような
けだるい感覚に教われました。
鼻血が出た場合は病院に送られ、
倒れた場合は家に帰される決まりになっていました。
全員、限界まで頑張っていたのです。

私たちの若く健康な肉体は
徐々に放射能に蝕まれていきました。
私たちの被曝量は
205レントゲンと記録されましたが、
実際の数値はその何倍にも及んでいたはずです。

(Veteran Kossov)
「ご苦労だった」
除隊時のボーナスは100ルーブル、現在の通貨に換算するとわずか100ドルです。
しかも屋上の放射能値は35%しか下がりませんでした。
当時、この屋上の放射線量は測定不能でしたが、1時間当たり
1万から1万2000レントゲンだと言われます。
人間がいられる場所ではありません。

事故から7ヶ月後 ( End of October 1986 )
原発は完全に石棺で覆われました。
作業に従事した人々は述べ50万人に上りました。
兵士たちは危険を顧みることもなく、除染作業に臨みました。
彼らのそのような英雄的な行動を称える意味で、
現場に旗を立てることを委員会に提案しました。
まるで勝利を喜ぶ赤軍のようでしたよ。
ドイツ軍を追い払った後のね。
旗は放射能に勝利した彼らの喜びを象徴していました。
さらに、除染作業者たちは任務終了を記念して、
石棺の最後の鉄骨に自分達の名前を残しました。
それは、文字どおり4号炉のひつぎでした。
そしてソ連の原子力発電所開発もこの時同時に葬り去られたのです。

ソ連政府は多大なる損失を被りました。
1ドルが1ルーブルの時代に、実に180億ルーブルを費やしました。
あまりに莫大な金額です。
しかも、その直後石油価格は高騰しました。
我国にとってはつらい状況でした。

やがて、最初の冬が訪れます。(22 Nobember 1986 )
石棺は30年以上耐久性があると、当局は見積もっていました。
除染作業者は現場を去り、1〜3号炉は運転を再開しました。
この事故の後、ソ連崩壊を経て20年の歳月が流れました。
しかし今もなお多くの人々が、放射能の影響に苦しみ続けています。

廃墟と化したプリピャチ市 (November 2005 Pripyat )
ユリアはコスチィンに伴われ、かって家族と暮らしたこの町を訪れました。
20年前に避難して以来この地に戻ってきた住民はいません。
母が描いた絵があったのは。。そうよ、思い出してきたわ
ここにあった?
壁に触れてみたらどうだい?
コスティンの胸にも様々な思いがよぎります。
彼も7ヶ月の取材の間に大量の放射能を浴びました。
今も毎年2ヶ月間の治療を受けています。
明日からまた元気を出して、
頑張っていくしかない。
きっとここに来たことが、今後の励みになるはずだ。
今日のことは一生忘れないわ。

数十万人に及ぶ避難民や除染作業者にとって、
20年前に始まった闘いはまだ終わっていません。
被曝による健康への悪影響に今なお苦しんでいるのです。
事故後、除染作業者はソ連全土の病院に殺到しました。
生存者は現在も通院を続け専門治療をうけています。

(チェルノブイリシンドローム)
チェルノブイリの悪夢はまだ終わっていません。
心臓や胃、肝臓や腎臓それに神経系など、
体の随所に異常が現れています。
大量の放射線を浴びて、体中がおかしくなってしまったんです。
除染作業者のほとんどが元の生活には戻れませんでした。
死を免れても、健康を損なったせいで仕事ができません。
それでも当局は生活保護の予算を削減しました。

前線から退いた兵士に死の危険はない。
被爆した私たちと違ってね。
そのことを詩にしました。
「哀しみと郷愁と怒りが私を包む」
「頭を貫く弾丸のごとく 病は急速に進む」
「息子の命を助けてくれと母は密かに祈るだけ」

彼らのほとんどが現在50歳以下、
しかし被曝の影響で体力は老人並みです。
軍によれば、50万人の除染作業者のうち、
2万人が死亡、20万人が障害を負いました。
(General Nikolai Antochkin President of Heroes Russia )
この苦しみが何年続くのかも、どんな症状が出るかも
分かりません。
子供たちへの遺伝的影響も心配です。
患者は見えない敵に体の内側からすこしずつ蝕まれていきます。

私たちの戦争はまだ続いています。
なす術もなく、死を待つ状態です。

今日までに公式に認められた事故の犠牲者は
59人だけ。
除染作業者50万人と避難民13万人に関して、
調査が行われたことは1度もありません。
汚染地区を立退かなかった住民の統計も存在せず。
彼らの被曝量は明らかにされていません。
「数値は6よ」
「昨日は5.7だから上昇している」
「心配いらないわ」
「悪いの? 本当のことを教えて」

1991年 ソ連崩壊の混乱の際に、
最高会議の代議員が極秘文書を入手しました。
原発事故が発生してまもない時期から書かれた
中央委員会に提出するための600ページに及ぶ議事録です。

( Alla Yaroshinslaya Deputy of the USSR Supreme Soviet )
当時、当局は国民に対し、ウソの発表をしていました。
文章に記されている内容は当局の発表とまったく異なります。
1986ねん5月12日に記されたこの文がいい証拠です。
こんの段階ですでに1万198人が病院に収容されており、
うち345人に放射線障害の症状が出ています。
当局はこの事実を把握していたにもかかわらず、
まったく問題ないとソ連国民に説明していたんです。

文書の別の部分には放射線による許容被曝基準が
当時の判断で5倍にまで引き上げられたと記されています。
その結果、多くの患者が突然病気が治ったことにされ、
病院から放り出されました。
これは国家の犯罪ですよ。
    
                   (つづく)

チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (6_7)

チェルノブイリ原発事故の放射能汚染による被爆者と石棺までの動画
社長のブログ http://shachoublog.net/nyu-su/cherunobuiri-douga.html より
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当ブログ
7編あります。順次UPの予定です。

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 
第1編 http://lituum.exblog.jp/20372694/
第2編 http://lituum.exblog.jp/20378293/
第3編 http://lituum.exblog.jp/20381544/
第4編 http://lituum.exblog.jp/20389517/
第5編 http://lituum.exblog.jp/20394600/
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きれいな元画?見つけた。こちらは10編。

1/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=dGZg9oAnc9I&list=SPABE2AE88CAC68D82
2/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=4pxIFjcC3YU&list=SPABE2AE88CAC68D82
3/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=_L4IX6X14IU&list=SPABE2AE88CAC68D82
4/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=SxTaGihu4kU&list=SPABE2AE88CAC68D82
5/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=5-LcjVRGIws&list=SPABE2AE88CAC68D82
6/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=gNXX6U95CpA&list=SPABE2AE88CAC68D82
7/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=l7mzoKLIvP8&list=SPABE2AE88CAC68D82
8/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=gT_Oqba3aNM&list=SPABE2AE88CAC68D82
9/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=GrcUveeiL6k&list=SPABE2AE88CAC68D82
10/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=UHi0rPJYy5c&list=SPABE2AE88CAC68D82
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追加)2013.8.2 チェリノブイリを チェルノブイリに用語統一。

  by setonokaze | 2013-05-07 06:28 | チェルノブイリ

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第5編

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べだ。

隠蔽されたこと、被曝、事故の始末。
福島の25年後が透けて見える。

1人が1回に作業出来る時間はわずか数分間。
ロボットは放射能で動かない。
フイルムに放射線が映る中
“バイオロボット”なる生身の人間が動員される。

口の中に金属の味を感じた。
これは福島でも。。

福島とチェルの相似点はいくつも。。



次の事故が起る前に原発はやめた方がいい。

引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                          テロップ書き起こしby lituum

チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (5_7)

(July 1986 Industrial Zone Reactor No. 4 )
現場では1日の休みのなく大がかりな作業が続きました。
30万立方メートルの汚染土を穴に埋めて、セメントで覆ったのです。
爆発した4号炉のすぐそばでも、ひたすら作業は続きました。
事故から8時間後も除染作業は続きました。
放射性物質を永久に封じ込めるためには、建物全体を隔離するしかありません。
L・ポルチャコフは4号炉を覆う構造物の設計を担当しました。
長さ170メートル高さ66メートルの巨大な石棺です。

前例のないプロジェクトでした。
(Lev Boxharov Engineer )
大量の放射能で汚染された場所でろをすっぽり覆うような
構造物を建造するのですからね。
通常なら数分しかいられない危険な環境下で、
巨大な建造物を建造するのは極めて困難です。
作業にあたる人々は非常に深刻な生命の危機に直面することになります。

(August 1986 )
チェルノブイリの爆発事故から3ヶ月が経過していました。
いよいよ最後の闘いが始まります。
放射能が多いため作業にはロボットが導入されますが、機材の設置には人手が必要です。
1人が1回に作業出来る時間はわずか数分間。
1秒ごとに死の危険は高まります。
アーム付きの作業車です。不格好なのは我々の手作りだからです。
少しでも兵士の被爆量を減らすため運転台は鉛で覆いました。
石棺の建設の使う鉄骨は遠方からも運び込まれ、
ジグソーパズルのように現場で組み立てられました。
鉄骨は重量150トン長さ70メートル支柱は高さ45メートルです。
これが使用したクレーン、かなり大きいでしょう?
現場にとどまれる時間はわずかです。
少しでも手順を誤れば、組み立て作業ははかどりません。
最悪の条件の中、作業は進みます。
10万立方メートルのセメントが投入されました。
ここで問題が発生作業が停止します。
屋上に散乱する汚染物質が原因です。

(September 1986 Roof of reactor No.3 )
「あそこにある塊が問題だ。500レントゲンもある。」
「そっちは1000レントゲンだ。」
「これ以上とどまるのは危険だ」
「早くしろ、急いで建物に入るんだ」
爆発で粉々に飛び散った減速材のグラファイトの小さい塊は
短時間で人命を奪うほどの高い放射能を帯びていました。
しかし、除染しなければ建設作業は行えません。
「ここは放射能が強すぎる。」
「人間が作業するのは不可能だ」
「ロボットを使おう」
ロボットが屋上からガレキを落として、
地上で別のロボットがそれを穴に埋めます。
しかし、数日後放射能の影響で電子系統が故障。
突然停止したり、誤動作を起こすようになります。
1台は屋上から落下しました。
「回収はできたのか?」
もはや、人間が代わりを務めるしかありませんでした。
いわゆる“バイオロボット”です。

(17 September 1986 Under the roof of block No.3 )
彼らは3号炉の屋上での作業に向かう兵士たちです。
全員が20代の予備兵で、作業のため特別に招集されていました。
現場の汚染状況は最悪でした。
指揮を執るタラカノフ少将が全員の防護服を点検。
これはすべて前夜兵士たちが手づくりしたものでした。
背や腹だけでなく、つま先に至るまで鉛で覆いました。
ヘルメット、ベータ線を防ぐマスク、特殊エプロン、二重に防護されたグローブ。
総重量は30キロ近くに及びました。

「医療検査は合格したか?」
「はい」
「問題はなにもないな?」
「では、早速、始めよう」
「同志諸君、きいてくれ」
「2日前、私も屋上に出たが、何一つ問題は起きていない」
「心配しなくていい」
「私が元気なのが、何よりの証拠だ」
もちろん中には抵抗する若者もいましが、
私たち予備兵に任務を断る権利はありません。

私自身はこれが自分の任務だと納得していました。
(Alexander Fedotov Bio-robot )
汚染の世界的な拡大は誰かが止めなければなりません。
絶対にね。
作業は2週間続きました。
1回の作業は通常で2〜3分間
特に危険な時は40秒に抑えました。
犠牲を最小限に食い止めるよう努力したのです。

サイレンが鳴ると士官1名と兵士8名が出動。
できる限り手早くがれきを屋上から落とします。
「もっと慎重にやるんだ」
屋上の放射線量は1時間当たり推定7000レントゲンでした。
外にいられる時間はあまりに少なく作業はほとんど進みません。
働きアリのように次々と交代して、がれきを落としました。

全員が最善を尽くして、放射能と必死に闘ったのです。
10分ごとにバイオロボット部隊は交代しました。
10日間の作業員総数は3500人。
C・フェドドフとコンスティンは5回屋上に出ました。
1500レントゲンもある塊を持つため
夜は拳を握れないほど、手が痛みました。
最初に屋上に出た時は大きな衝撃を覚えました。
放射線物質が散乱した光景はまるで別の惑星のようでした。 

手が震えましたね。
私は夢中でその様子をカメラに収めました。
この写真には放射能が写っています。
写真の下から立ち上がっている白い光がそうです。
屋上に出ると目が痛くなり、口の中に金属の味を感じました。
許容量を超えて被爆した証拠だと思いました。
歯の感覚が一切なくなり口が空洞になったようでした。
かみ合わせの音も聞こえず、鉛の味だけがしました。
20年経った今でもあの味は忘れられません。
ロボットの代わりに作業にあたった兵士の多くが、
この奇妙な味を経験しています。
彼らは命を削りながら休みなく除染作業を続けました。
本来なら1人が1時間で行える仕事に60人の作業員が必要でした。

                 (つづく)

チェルノブイリ 連鎖爆発阻止の闘い5 7

チェルノブイリ原発事故の放射能汚染による被爆者と石棺までの動画
社長のブログ http://shachoublog.net/nyu-su/cherunobuiri-douga.html より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当ブログ
7編あります。順次UPの予定です。

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 
第1編 http://lituum.exblog.jp/20372694/
第2編 http://lituum.exblog.jp/20378293/
第3編 http://lituum.exblog.jp/20381544/
第4編 http://lituum.exblog.jp/20389517/
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
きれいな元画?見つけた。こちらは10編。

1/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=dGZg9oAnc9I&list=SPABE2AE88CAC68D82
2/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=4pxIFjcC3YU&list=SPABE2AE88CAC68D82
3/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=_L4IX6X14IU&list=SPABE2AE88CAC68D82
4/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=SxTaGihu4kU&list=SPABE2AE88CAC68D82
5/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=5-LcjVRGIws&list=SPABE2AE88CAC68D82
6/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=gNXX6U95CpA&list=SPABE2AE88CAC68D82
7/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=l7mzoKLIvP8&list=SPABE2AE88CAC68D82
8/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=gT_Oqba3aNM&list=SPABE2AE88CAC68D82
9/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=GrcUveeiL6k&list=SPABE2AE88CAC68D82
10/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=UHi0rPJYy5c&list=SPABE2AE88CAC68D82
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追加)2013.8.2 チェリノブイリを チェルノブイリに用語統一。

  by setonokaze | 2013-05-06 08:00 | チェルノブイリ

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第4編

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べだ。

隠蔽されたこと、被曝、事故の始末。
福島の25年後が透けて見える。

1986年4月26日 チェルノブイリ原発が爆発。
大爆発(2次爆発)していれば3〜5メガトン相当
欧州全域が人間の住めない環境にという。
福島も、危うく東京を含め終わるところだった。

福島とチェルの相似点はいくつも。。




次の事故が起る前に原発はやめた方がいい。

引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   テロップ書き起こしby lituum

チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (4_7)

5月13日 ( 13 May 1986 Chernobyl Zone )

炉の地下を掘る任務が彼らに命じられます。
どっちだ? まっすぐ先へ行くんだ。
右折は禁止だ。5分後に指定場所へ集合しろ。
3号炉の下から150メートルのトンネルを掘り
4号炉の真下で上方向に掘り進みました。
そこに30メートル四方の空間を作りました。
高温の炉を冷却する装置を納めるためです。
放射能を避けるため炭坑労働者たちは地下12メートルを掘り進みました。
4号炉の真下に達したら、広い空間を作り、
そこに冷却装置を設置する予定でした。
切削の目標は1日13メートルだ。

この切削作業のため
1万人の炭坑労働者が集められました。
全員20代の若者です。トンネル内の温度は50度。
しかも、1時間いれば1レントゲンの放射能にさらされます。
フイルターがすぐに湿ってしまうため、マスクは使いませんでした。
皆、上半身裸になり、ボトルの水を飲みながら作業しました。
この水は放射能に汚染されていたので、
放射性粒子が直接体内に入ってしまいました。
土を飲み込んでしまった同僚はその後、
すぐに死にました。
(Andrei Nassonov Miner from Toula )
土も放射能に汚染されていたんです。

トンネル内は酸素が薄く、照られないほどの暑さでした。
(Vladimir Amelkov Miner from Toula )
でも、ひたすら掘り続けろと急がされました。
過酷な状況でしたが必死で掘るしかありませんでした。
30人ずつが3時間交代で1日中作業を続けました。
1ヶ月の堀削距離は150メートル通常の3倍のペースです。
トンネル内の放射線量は多くはありませんが地上に出てから
走らなければなりませんでした。

トンネル出口での放射線量は地下の300倍。
危険な環境下にいることについては、
誰も説明を受けませんでした。
仕方がありません。非常事態ですからね。
誰かがやらねばならなかったのです。
私たちは仕事をやり遂げました。後悔していません。
結局、堀広げられた空間は冷却装置を置く代わりに、
原子炉の基盤強化のため、セメントで満たされました。
作業員の被曝は30〜60レントゲンとされましたが、
実際は、その5倍ともいわれています。
作業に参加した、1万人の炭坑労働者のうち、
2500人が40歳に達する前に命を落としました。

国際原子力機関( IAEA )のブリックスは
ソ連当局と記者会見を開きました。
国際原子力機関を代表して、犠牲者に深い哀悼の意を表します。
この悲劇により多くの命が失われました。
「事故分析のためソ連当局はウイーンを訪問することに同意しました。」
国際会議で情報を公開することにソ連当局が同意したと、
ブリックスは記者の前で発表しました。
共同会見を開いたことはソ連の歴史でも画期的なことでした。
それまで、ソ連政府は事故などあっても隠すばかりで、
国民もそんな政府に不信感を抱いていました。
しかし、グラスノスチという新政府の改革のおかげで、
人々は何が起きたかのか知ることができたのです。

ゴルバチョフ政権は
グラスノスチと呼ばれる情報公開政策を開始、
これが大きな成果をもたらしました。
火災が鎮火した後も現場には、放射能に汚染されたがれきが残っています。
これ以上の汚染の拡散を食い止めるには、さらに多くの人手が必要でした。

「同士諸君…」( 14 May 1986 )
5月14日
ゴルバチョフは声明を発表します。
「チェリノブイリの事故は国民に強い不安をあてへています。」
「また、国際的懸念もたかまっています。」
「原子力が制御不能となる大事故は、我が国にとって初めての経験です。」
「現在、全力で事態の収拾にあたっています。」
「国家のもてる力をすべて、集結させなければなりません。」

過去の慣例やコストなどは度外視して、
とにかく必要な物資を集めました。
形式などに、とらわてている余裕はなかったのです。

N・タラカノフ少将は兵士の指揮を統括しました。
1年で10万のへいがチェリノブイリへ駆り出されました。
政府の命により、予備兵が招集され、「最前線」へ送られたのです。
軍人も民間人も一切の区別なく
全員が1人の「除染作業者」として危険な任務を遂行しました。
「初日は放射能が恐ろしくて、マスクを外せなかった。」
「でもすぐに慣れる」
「今は全然不安はないね」「皆冗談ばかりさ」「それに酒もある」
「うわさに聞いてるだろうが、だだでウオッカが飲める」
「本当に仕事をしているの?と女房に言われたよ」

当局は5人の記者を招き作業の取材を認可しました。
しかし、そのうち3人はすでに死亡しています。
現場では階級の違いにとらわれす、
誰もが誠実に与えられた務めを果たしていました。
チェルノブイリの除染作戦が繰り広げられていました。
民間の労働者や医療関係者技術者が40万人、
そして、兵士10万人が作業に動員されました。
国全体で事態の収拾にあたったのです。
総勢50万人に及ぶ人々がチェルノブイリに集結し、
放射能を浴びながら作業を続けました。

上空からは放射能を帯びたちりを固めるため、粘着性がある液体が散布されました。
一方、地上では除染作業者が各住戸を回って、放射性粒子の除去作業を行いました。
特別部隊も編成されました。
森をパトロールしてイヌやネコを射殺するためです。
危険地帯をうろつく動物はすべて殺されました。
人間に接触して被爆させる可能性があったからです。
残っていた住民もすべて撤去させ、家屋は壊して土に埋めました。
この作業により作業員も機器も汚染されます。
1日5回、体を洗いました。石けんを手に、
仲間同士で体を洗うのを助け合いました。
皆、懸命でした。食事にも気をつけました。
栄養不足で体力が低下すると放射能の影響を受けやすいからです。
最初は体の特に弱っている個所
そして最後は全身が蝕まれます。

                    (つづく)

チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (4_7)


チェルノブイリ原発事故の放射能汚染による被爆者と石棺までの動画
社長のブログ http://shachoublog.net/nyu-su/cherunobuiri-douga.html より
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当ブログ
7編あります。順次UPの予定です。

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 
第1編 http://lituum.exblog.jp/20372694/
第2編 http://lituum.exblog.jp/20378293/
第3編 http://lituum.exblog.jp/20381544/
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きれいな元画?見つけた。こちらは10編。

1/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=dGZg9oAnc9I&list=SPABE2AE88CAC68D82
2/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=4pxIFjcC3YU&list=SPABE2AE88CAC68D82
3/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=_L4IX6X14IU&list=SPABE2AE88CAC68D82
4/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=SxTaGihu4kU&list=SPABE2AE88CAC68D82
5/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=5-LcjVRGIws&list=SPABE2AE88CAC68D82
6/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=gNXX6U95CpA&list=SPABE2AE88CAC68D82
7/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=l7mzoKLIvP8&list=SPABE2AE88CAC68D82
8/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=gT_Oqba3aNM&list=SPABE2AE88CAC68D82
9/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=GrcUveeiL6k&list=SPABE2AE88CAC68D82
10/10 チェルノブイリ連鎖爆発阻止の闘い
http://www.youtube.com/watch?v=UHi0rPJYy5c&list=SPABE2AE88CAC68D82
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追加)2013.8.2 チェリノブイリを チェルノブイリに用語統一。

  by setonokaze | 2013-05-05 09:53 | チェルノブイリ

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第3編

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べだ。
隠蔽されたこと、被曝、事故の始末。
福島の25年後が透けて見える。

放射線量は正常値の数千倍に達していました。
しかし、汚染の激しい地域でも、
当局は祭典への参加を奨励します。
1986年のメーデー祭典の写真です。
当時のウクライナの書記長も孫を連れて式典に参加しました。
社会的混乱を避けようとしたのでしょう、
しかし、我々は事態をあまりに過小評価していました。
この祭典で被爆した子供の数は分かっていません。
ウクライナの書記長はその後自殺しました。

原子炉は爆発寸前の巨大な原子爆弾と化していました。
爆発の規模を試算したところ、3〜5メガトンに相当するという結果が出ました。

福島とチェルの相似点はいくつも。。



次の事故が起る前に原発はやめた方がいい。
引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   テロップ書き起こしby lituum

チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (3_7)

予定どおりメーデーの祭典が行われましたが、
まるで悲劇から目をそらしているかのようでした。
国のそのような態度が問題でした。
放射線量は正常値の数千倍に達していました。
しかし、汚染の激しい地域でも、
当局は祭典への参加を奨励します。
1986年のメーデー祭典の写真です。
私自身も参加して、この目でパレードを見ました。
あれは文字どおり死の行進だったと言えるでしょう。
なぜかウクライナの公文書館にこの日の記録はありません。
コスティンの写真がすべてです。
当時のウクライナの書記長も孫を連れて式典に参加しました。
社会的混乱を避けようとしたのでしょう、
しかし、我々は事態をあまりに過小評価していました。
この祭典で被爆した子供の数は分かっていません。
ウクライナの書記長はその後自殺しました。

事故から1週間後の5月2日 
原発から7キロ圏内に住む市民が避難を開始。
その後、30キロ圏内に避難命令は拡大されました。
避難者数は合計13万人すでに大半が被爆していました。
汚染地域 ウクライナと白ロシアの広大な地は
数日で無人地帯と化しました。
土地に根付いていた歴史や文化はわずか数日で
見えない脅威により葬り去られたのです。
放射能汚染は戦時以上に過酷な状況を人々に強いました。
戦争なら敵兵や兵器が肉眼で確認出来ますが、放射能は見えません。
宙を漂うだけです。
しかし、密かに体に入り込み、
長い時間をかけて、いのちを奪います。
これほど恐ろしい相手はいませんよ。
放射能を含んだ雲は欧州全域を漂いました。
セシュウム137とヨウ素131の雨がフランス南部とコルシカ島に降り、
各地の農作物や牧草は深刻な放射能汚染の被害を受けます。
さらに、英国からギリシャにまで雲は広がりました。
一方、事故現場では放射線量がさらに上昇 
6000トンの砂とホウ素を投下したものの、
炉の底では放射性物質がなお高温を保っていました。

5月5日
ゴルバチョフは私的な要請として、初めて西側の専門家を招きました。
国際原子力機関(IAEA)の事務局長ブリックスです。
上空から炉を視察した印象は?
真上から事故現場を見ましたが、
まだ少し煙が出ていることが確認できました。
まず、2次爆発が起る可能性を検討しました。
モスクワを訪れた時に、友人から電話が入ったのを覚えています。
「2次爆発があるといううわさは本当なのかね?」とね。

砂に覆われた炉の底では
195トンの燃料がその後も高温で燃え続けていました。
建物の表面にはひびが入り始めます。
砂をまいて炉を覆ったことにより、
結果的に内部の温度がさらに上昇し続けていました。
これが2次爆発の誘因となることを何より恐れていました。
もし、そうなれば、待っているのは大惨事ですからね。
コンクリート床に熱でひびが入ればそこから放射性物質が漏れ出します。
床下には初期の消火活動での水が残っていました。
放射性物質と水が接触すれば
さらに大規模な爆発が発生する恐れがありました。
対策を練るため選りすぐりの専門が呼ばれました。
核ミサイル開発担当のV.ネステレンコ(Vassili Nesterenko Nuclear Physicist)もその一人です。
溶解物の量は1400キロ程度です。
しかしそれがひとたび水に接触すれば、
大爆発が起きてしまいます。

原子炉は
爆発寸前の巨大な原子爆弾と化していました。
爆発の規模を試算したところ、3〜5メガトンに相当するという結果が出ました。
もし現実にそんな爆発が起きれば、欧州全域が人間の住めない環境になります。
2度目の爆発が起きれば、大惨事です。
絶対に避けなければなりませんでした。
広域が壊滅状態に陥ります。
2次爆発による大規模な衝撃波と大量の放射線は数時間で数千人の命を奪うはずです。
キエフやミンスクゴメリでは避難活動に備えて列車や1000台近くのバスが待機していました。委員会は2つの緊急処置を講じる決定を下しました。
一つは軍所属の消防隊に残った水を排水させること。
この兵士たちは生涯放射線病を患うことになりました。

もう一つは、
炉心の温度を下げるために、
2日間で2400トンの鉛を原子炉に投下するというものです。
鉛を投下するとすぐに炉の温度は下がり、
同時に溶けた鉛が亀裂を塞ぎ放射能量も低下しました。
しかし、鉛が蒸発すれば大気を汚染します。
後年この鉛が原因による疾患も報告されました。
現在も批判の声はあります。
しかし、
あの状況では他に策がなかったのです。
兵士だけでなく民間人も自らを省みず、事態の収拾に努めました。
私は彼らの行為を実際に目撃していたのです。
あの時、活躍した人々こそが真の英雄でしょう。
この作戦に参加した6000名のパイロットは大量の放射能を浴び、
現在まで生存している者はいません。
その後も火災は収まりませんでした。
上空からでは完全に消火できません。
なにか、別の方法で現場に近づくしかありません。

5月11日
2次爆発の危険はなおも消えずにいました。
青写真を検討したところ、配線用トンネルで炉下へ行けると判明。
すぐに、専門の技術者が現場に送り込まれます。
トンネルの一部は壊れていました。
バーナーで壁を焼き切りながら、
放射能検出器と温度計カメラを携えて前進します。
4号炉の下に達した時、
計器は天文学的な放射能値を計測しました。
溶融物はセメントのひびから流れ落ちていました。
非常に危険な状態です。
炉の下にたまっていた水はすでに抜いてありました。
しかし、2次爆発の可能性は依然として残っていたので、
放射性物質の漏れを完全に防ぐ必要がありました。
もし溶融物が砂質の地盤を突き抜ければ、
ウクライナ全体の水源である広大な帯水層の一部と接触します。

最も恐れたのは
放射性物質が地下水脈に達することでした。
まずプリピャチ川が汚染され、
すぐにドニエプル川や黒海さえも被害を被るはずだからです。
それだけは避けねばなりませんでした。
人命を犠牲にしても、効果的な対策が必要でした。
 
事故から17日目の1986年5月12日
チェルノブイリから1000キロ離れたツーラの炭坑を政府幹部が訪ねました。
原発事故の説明を受けた後、
炭坑労働者が必要なので旅行の準備をしろと言われました。
そして、翌日チェルノブイリに、送り込まれたんです。
(Vladimir Naumov Miner from Toula)
到着当日から作業が始まりました。
                      (つづく)

( )は注釈です。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (3_7)



チェルノブイリ原発事故の放射能汚染による被爆者と石棺までの動画
社長のブログ http://shachoublog.net/nyu-su/cherunobuiri-douga.html より

7編あります。順次UPの予定です。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
きれいな元画?見つけた。こちらは10編。
3/10 http://www.youtube.com/watch?v=_L4IX6X14IU&list=SPABE2AE88CAC68D82
2/10 http://www.youtube.com/watch?v=4pxIFjcC3YU&list=SPABE2AE88CAC68D82
1/10 http://www.youtube.com/watch?v=dGZg9oAnc9I&list=SPABE2AE88CAC68D82
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 
第2編 http://lituum.exblog.jp/20378293/
第1編 http://lituum.exblog.jp/20372694/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追加)2013.8.2 チェリノブイリを チェルノブイリに用語統一。
   2014.6.8 誤字訂正

  by setonokaze | 2013-05-03 17:10 | チェルノブイリ

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第2編

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べだ。
隠蔽されたこと、被曝、事故の始末。
福島の25年後が透けて見える。

事故の30時間後(1986年4月27日 午前11時)
1000台以上のバスがプリピャチ市内に到着。
午後2時 避難命令が出されます。
園児にはヨード剤が配られました。

早い段階で27人が死亡しました。
他の患者も全員重度の火傷により危篤状態に陥りました。 
後の15年間公式にはこの時の死者数のみが発表されます。

プラウダ紙には小さく事故の記録が出ましたが
そこには、危険は去ったと記されていました。

福島とチェルの相似点はいくつも。。




次の事故が起る前に原発はやめた方がいい。
引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                          テロップ書き起こしby lituum

チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い (2_7)

4月27日 午前8時 ( pripyat )
まだ、正式な発表はありません。
当時5歳だったユリアの父親は発電所に勤務していました。
父はすでに事故を知っていました。(Yulia Martchenko Refugee from pripyat )
しかし、普段どおりに 両親は私を幼稚園へ連れていったのです。

事故の30時間後(4月27日 午前11時)
1000台以上のバスがプリピャチ市内に到着。
午後2時 避難命令が出されます。
園児にはヨード剤が配られました。
皆慌ててはいましたが大きな混乱はありませんでした。
すぐに戻れると思っていたからです。
当局は事態の深刻さを隠したまま、
2時間で荷物をまとめるよう人々に命じます。
当時持っていた人形を全部連れていきたかったのですが、
すべては荷物に入れられませんでした。
防寒着も置いていきました。
実際は、これが住民にとって故郷との永遠の別れでした。
避難命令を拒み、留まった人は数週間後遺体で発見されました。
年配の人々は迫り来る危険を信じようとはしませんでした。
第二次世界大戦時ドイツ軍に侵攻された時とは違い、
放射能という敵は目に見えず脅威を実感せきなかったからです。
当時は、じっくり説明する時間的余裕もありませんでした。

(4月27日 午後5時)
三時間半で4万3000人が大きな混乱もなく避難します。
バスの車列が町から離れていきます。
この時、彼らはすでに被爆しており、その後健康の不安を抱えます。
プリピャチは本当に美しい町です。いつかは住民は戻るべきです。
子供たちのためにもね。どこにいても人生には、リスクがある者ですよ。

事故から48時間後
ゴーストタウンと化した町に、
専門家チームと軍による対策本部が設置されました。
彼らは放射能で汚染された建物に泊まりこみました。
こんな自作行為を行ったなんて今でも信じられません。
もちろん彼らは過去にも原発事故の経験はありました。
しかし、これほど大規模な例はなかったため,事態を甘く見ていたのです。
1〜2ヶ月で運転を再開できると考えていたぐらいですからね。

放射性粒子は風に乗り、北へ運ばれました。
そして26日から27日にかけ
ロシア、白ロシア、バルト諸国へと粒子は拡散します。
28日にはスエーデンでも、大量の放射能が検知されました。
そして、
この放射性粒子は雨に混じり、ストックホルムに降り注ぎます。
異変に気づいたスウェーデン当局は測定結果を基に原発事故の発生を疑います。
事故から60時間経ってもソ連からの公式発表はありません。

事故当時、私は国際原子力機関の事務局長を務めていました。
( Hans Blix Director of the International Atomic Energy Agency )
事故後、スウェーデン当局から電話があり、放射能の増加についてしりました。
そして原因は他国のようだが情報はないかと聞かれたのです。
今は何も分からないが調査すると私は答えました。
そしてすぐにポーランドやソ連へ放射能漏れはないか問い合わせました。
スエーデンから放射能が検知されたと知らされ、
ただならぬ状況にあることをソ連政府は初めて悟ったわけです。
 
事故の3日後
欧米の軍事衛星はチェルノブイリ原発事故の様子をカメラに収めていました。
4号機からの煙や熱がはっきり確認できます。

4月28日の夜
ようやく国際原子力機関にソ連の原子力委員会から原発事故の報告がありました。
そして同時にソ連政府は世界に向けて事故の発生を公表したのです。
ソ連の中央委員会政治局はあらゆる事実を把握すべきだという方針を固めました。
私はKGBを使いました。
科学者同士の会話などを含めあらゆる情報を収集させて、私に報告させたのです。
しかし事態の把握には2日以上が費やされ、
その間に4万3000人以上のプリピャチ市民が被爆しました。
1200トンのガレキとなった炉は3000度の高温で燃え続け、
放射能を含んだガスやちりをなおも放出し続けています。
欧州の安全も風向き次第です。
 
( Chernobyl 28 April )
よし、出発するぞ。
事故から3日後アントシキン少将は消火活動のためモスクワを出発。
上空200メートルから現場を視察しました。
火災のため現場上空はかなりの高温に達しておりそれだけでも大変でした。
あの時用意した線量計で測れる最高値は5000レントゲンでした。
(Nikolai Antochkin General Air Foce )
しかし、針は完全に振り切っていましたよ。
おそらく1000レントゲン以上あぅったはずです。
高度200メートルでも30分が限度です。
温度と放射線量を考えればこれ以上近づくことはできません。
何か別の対応策が必要でした。
煙が出ているし、温度も高すぎる。窒素を使った方がいいだろう。
一刻も早く炎を消して、
炉を封鎖し炉に接近出来る環境を作る必要がありました。
放射性粒子が風で拡散するのを食い止めるには
現場に近づいて作業しなくてはいけないからです。
アフガニスタンから急遽帰還したパイロットがヘリを操縦して、
兵士が80キロの砂袋を素手で炉の中へ投下します。
炉の中には放射能を中和する働きのあるホウ素も投入されました。
初日は110回2日目は300回作戦が実行されます。
致死量の9倍に相当する3500レントゲンもある現場上空を
1日に33回飛行した兵士もいました。
1回の飛行で最低でも5〜6レントゲンを被爆しました。
眼下に広がる炎のせいで兵士たちは汗だくでした。
数回の任務をこなしたら食事をとるのですが、
皆、後でおう吐していました。

被爆した者はモスクワ第6病院へ搬送されました。
国内で急性放射線症の治療を行えるのはこの病院だけだったからです。
急性放射線症の初期症状はおう吐や悪心、下痢などです。
潜伏期間を過ぎると脊髄の障害や放射線火傷などさらに深刻な症状が現れます。

空港から搬送されてきた患者を見て胸が痛みました。
( Natalia Nsdejina Doctor in Nuclear Medecine Hospital No.6 )
ほとんどが若者だつたからです。
皆、潜伏期間中だったため元気で全員が同じパジャマであることを冗談の種にしていました。
しかし、彼らの多くは死ぬ運命でした。
早い段階で27人が死亡しました。
他の患者も全員重度の火傷により危篤状態に陥りました。 
後の15年間公式にはこの時の死者数のみが発表されます。

( Chernobyl 1 May )
爆発時の放射線の影響で現場から30キロ東にある森が枯れました。
やがて、雲に運ばれた放射性物質が雨となって地上に降り注ぎ
さらに広範囲の森を枯らせます。
森林の放射能汚染はまだら状に拡大していきました。
5月1日キエフの町にも放射能に汚染されます。
これは放射線量を記したキエフの地図です。
汚染が激しい赤色の地域を通常値の地域が取り囲んでいます。
市民は何も知りませんでした。
プラウダ紙には小さく事故の記録が出ましたが
そこには、危険は去ったと記されていました。


                         (つづく)
  
( )は注釈です。
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チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い。2−7


チェルノブイリ原発事故の放射能汚染による被爆者と石棺までの動画
社長のブログhttp://shachoublog.net/nyu-su/cherunobuiri-douga.htmlより
注)原画のタイトルはチェルノブイリの闘い。(The Battle of Chernobyl )
全7編あります。順次UPの予定です。
追加)2013.5.3
きれいな元画?見つけた。こちらは10編。
http://www.youtube.com/watch?v=4pxIFjcC3YU&list=SPABE2AE88CAC68D82
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1. 福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第1編 
  http://lituum.exblog.jp/20372694/
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追加)2013.8.2 チェリノブイリを チェルノブイリに用語統一。

  by setonokaze | 2013-05-02 23:29 | チェルノブイリ

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