福島を知りたければ、チェルノブイリに学べ 第1編

福島を知りたければ、チェルノブイリに学べだ。

隠蔽されたこと、被曝、事故の始末。
福島の25年後が透けて見える。

1986年4月26日 爆発。
大爆発(2次爆発)していれば 3〜5メガトン相当
欧州全域が人間の住めない環境にという。
福島も、危うく東京を含め終わるところだった。

ヨード剤も避難も必要だ。
お上のドタバタ。。
福島とチェルの相似点はいくつも。。





次の事故が起る前に原発はやめた方がいい。

引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                          テロップ書き起こしby lituum

チェルノブイリ( 連鎖爆発阻止)の闘い(1_7).

1986年4月25日 金曜日
それはウクライナのプリピャチ市の住民にとって、
平穏な生活の最後の1日となりました。
(A film by Thomas Johnson Produced by Hind Saih )
ここはプリピャチから3キロ離れたチェリルノブイリ原子力発電所。
この夜、176人が働く4号炉では非常用発電システムの動作試験が行われることになっていました。

4月26日 午前1時23分
安全システムを解除して試験を開始。
やがて、炉心から爆音が響きました。
夜の静寂の中、発電所の床が激しく揺れます。
1200トンの炉の上蓋が吹き飛ばされました。
半径数百メートルに及び、高い放射性を帯びた蒸気や破片が飛散します。
炎や煙と共に大量の放射性粒子が空高く立ち上りました。
オレンジ色や赤青が混ざったようなとても明るい炎が見えました。
(Youri Korneev Machine Operator−Reactor No4 )
まるで虹のように美しいと感じたのを覚えています。
それは、歴史上最悪の原発事故でした。
午前5時頃電話がありました。
(Mikhael Gorbachev Fmr. First Secretary-USSR )
チェルノブイリ原発で何らかの事故が起きたという報告でした。
最初に現場に到着した消防士たちは防護服も身につけずに消火活動にあたりました。
その結果、大量の放射線にさらされ、当日の夜に2人
その後数ヶ月で28人が死亡。
彼らは放射能の危険を知らされていませんでした。
そして、爆発後7ヶ月間にわたり50万人が事態の収拾にあたります。
彼らの努力は称えられることもなく、歴史の中に埋もれました。
しかし、広島の原爆の10賠とされる2次爆発を防げたのは、
彼らの献身がたったからこそです。
当時の詳細は20年間極秘にされてきました。
しかし、1人のジャーナリストが自ら放射線にさらされながら、当時の状況を撮影しました。
その生々しい情景を納めた記録がチェルノブイリの真実を今ここで、私たちに教えてくれます。
チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い。(The Battle of Chernobyl )

4月26日 午前8時
上空の雲はすでに放射能に汚染されていました。
ノーボスチ通信社のI・コスティンはパイロットの友人に誘われ発電所上空を飛行。
詳細を知らぬまま記者として初めて爆発後の現場を目撃します。
「あの煙突に寄ってくれ」「事故が起きたのは4号炉のようだ」「まだ煙が出ている」
 ヘリで上空を周回した時は被爆するなんて、思ってもいませんでした。
(Igor Kostin photographer- Novosti Agency)
窓を開けた時もそれがどれほどの過ちかまるで意識していませんでした。
立ち上る煙は大量の放射能を帯びていました。
事故後の現場を取材して生き残った報道関係者は少数です。
ヘリの窓を開けると、真下に原子炉の残骸が見えました。
音は一切聞こえません。
まるで、墓場のような静けさでした。
ヘリの音も耳に入りませんでした。
まさに、死を思わせる情景でした。
これは最初の現場写真です。1〜2分もすると機材が動かなくなったため,
結局10枚程しか撮影出来ませんでした。
その後、キエフに戻り事故現場の写真を現像したのですが、
ネガが黒く変色して色がきれいに出ませんでした。
放射線の影響であることは後から知りました。
残骸に埋もれた炉心ではグラファイトが燃え、燃料のウランを溶かしていました。
放置し続ければ放射線量は広島とながさきの原爆の合計の100倍に達します。

爆発から8時間後
ゴルバチョフ書記長が報告を受けます。
最初に受けた報告では火災事故と言うことでした。爆発が起きたとは聞いていませんでした。
この誤った情報が深刻な事態を招いたのです。

午前10時半
プリピャチ市の住民はまだ、なにも知りませんでした。
科学アカデミーの総裁だったアレクサンドロフは原子炉には問題ないと報告してきました。
赤の広場に置いても平気なほど原子炉の安全性は完ペきだと私に力説したのです。

やがて
事故のうわさが流れますが公式発表はないままでした。
映像が白く光っているのは放射線の影響です。
町中を巡回する兵士はマスクを着用し始めました。
この時の司令官はV・グレペニオウク大差です。
口の中で金属の味がしました。( Vladimir Grebeniuk Colonel-Civil Defence )
放射性ヨウ素の味です。放射線は無味だと教えられていたんですがね。
大佐の部隊は子供たちが遊ぶ広場で放射線量の測定を初めて行いました。
当時、測定の単位はレントゲンでした。正常値は0.012ミリレントゲンです。

しかし、正午過ぎに
測定された値は200ミリレントゲン。これは正常値の1万5000倍以上です。
さらに、夕方には正常値の60万倍に達しました。
放射線値は上昇を続け、夜には7レントゲンにまで跳ね上がりました。
測定器の故障か測定ミスだと誰もが考えました。
しかし、あの時はまだ燃え盛る原子炉から放射性物質が放出され続けていたんです。
この地図は今でも汚染されています。健康を害さない吸収線量の限度は年間2レントゲン。
400レントゲンを上回ると人間は死亡します。
事故当日、プリピャチ市の住民は100レントゲン(1000ミリシーベルト)を吸収。
つまり4日間で死に至る量です。
大佐は部下を派遣し発電所付近の放射線量も測定します。
測定された量は何と2080レントゲンでした。
そんな場所に私は部下を送り込んでしまったんです。
これほどの放射線濃度の環境では人間はわずか15分で死亡します。
この前代未聞の測定値は関係者に大きな衝撃を与えました。

ゴルバチョフは即座に専門家による対策委員会を設立します。
委員会を率いたのは原子物理学者のレガノフ。
彼は早速、チェルノブイリに向かいました。
最初の2〜3日は調査チームからまともな報告はありませんでした。
一刻を争うような状況でしたが、
あまりに事故が大規模なため、彼らも状況を把握できなかったのです。
事故から20時間経ってもまだ市民に対して指示は出ませんでした。
本来なら戸や窓を閉めて、ヨード剤を服用すべき状況でした。


                 (つづく)
( )は注釈です。
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チェルノブイリ(連鎖爆発阻止)の闘い。1−7




チェルノブイリ原発事故の放射能汚染による被爆者と石棺までの動画
社長のブログ http://shachoublog.net/nyu-su/cherunobuiri-douga.htmlより

注)原画のタイトルはチェルノブイリの闘い。(The Battle of Chernobyl )
全7編あります。順次UPの予定です。
追加)2013.5.3
きれいな元画?見つけた。こちらは10編。
http://www.youtube.com/watch?v=dGZg9oAnc9I&list=SPABE2AE88CAC68D82
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  by setonokaze | 2013-05-01 23:05 | 原発

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