チェルノブイリの今  元広島市長 平岡敬 

今日、ご紹介するのは
元広島市長 平岡敬 氏の
レポ。

26年後の
福島の姿が浮かぶ。
老朽化が進み
チェルノブイリは
ウクライナ1国では         (注1)
手に負えない。
国際援助を得て、
新たなシェルターを
作らなければならない。

福島も、
いつまでも、水で冷やす訳にはいかない。
東電1社で維持費を払い続けなくなる。のは
時間の問題だ。

今、
安易な気休めを政府は言うが、
それは政権を維持するための
リップサービスに過ぎない。

チェルノブイリは 
今も300メートルくらい離れたところで、
線量計は毎時12~13マイクロシーベルトだ。

気の遠くなるような
費用が福島の原発の後始末に必要だ。
まき散らされた、放射能による被害も、
段々、隠し通せなくなるだろう。

次の事故を起こす前に原発はやめた方がいい。


転載・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

チェルノブイリの今 平岡敬 <上> 負の事業
際限なき人間と核の戦い

放射線覆い続ける4号炉  
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福島第1原発と同じ史上最悪レベルの事故を起こしたチェルノブイリを、現地の被曝(ひばく)者の意識を3年前から調査している広島大平和科学研究センターの川野徳幸准教授と訪れた。チェルノブイリの現状を2回にわたり報告する。

 チェルノブイリ原発はウクライナの首都キエフから北へ130キロ。立ち入り制限区域の30キロ地点にあるディチャーチキ検問所を過ぎて、白樺(しらかば)や松、ポプラなどの森の中を進むと、チェルノブイリに着く。

 この街は原発事故の際、風上にあったため、大きく汚染されることはなかった。現在、除染作業員、科学者、技術者たち4千人が滞在し、原発の封鎖や汚染物の管理などに従事している。しかし、放射線から身を守るため、4日働いた後、3日は市外の家族のもとに帰るという。

 中心部に昨年、1986年の事故から25年を記念してつくられた公園の中央には、強制避難で消滅した30キロ圏内の集落や村をしのぶ162もの標識が立っている。それは失われた故郷と人々の暮らしを悼む墓標のように見えた。

 チェルノブイリを出て間もなく、事故を起こした4号炉の太い煙突が目に入ってくる。車を降りて5基並ぶ原発(2000年にすべて廃炉となる)の全容を眺めた。

 ソ連の崩壊を加速させる大きな要因となった原発事故の惨状がよみがえる。フクシマもまた日本社会の変化を促す契機となった。歴史の歯車と犠牲者の苦しみが織り成す核時代の一断面である。フクシマがなければ、チェルノブイリの記憶も薄れていったに違いない、と自責の念に駆られた。

 厳しいチェックを受けた後、4号炉に近づく。事故後、厚いコンクリートの「石棺」で暴れる核を抑え込んだが、内部では今も放射能を帯びたがれきがくすぶっている。300メートルくらい離れたところで、線量計は毎時12~13マイクロシーベルトを示した。

 4号炉を眺める2階建ての展望室で、女性の説明員ユーリア・マルシーキさんは、4号炉の現状と新しい石棺の構想を熱を込めてしゃべり続けた。

 石棺は老朽化が激しい。屋根がゆがみ、隙間もできている。腐食が進んで雨水や雪解け水が入り、底にたまっている。崩壊すれば再び悲劇が起こる。それを防ぐため、米国、フランスなどの協力を得て2010年からアーチ形の石棺を造り始めた。このシェルターは幅257メートル、長さ150メートル、高さ108メートルに及ぶ巨大な構造物である。完成後は軌道を滑らせて、4号炉をすっぽりと覆うことになる。

 工費は8億ドル以上、2015年に完成するとユーリアさんは強調したが、放射線量が高いところでの作業であるだけに、簡単には進まないようであった。

 作家で日本ペンクラブ会長の浅田次郎さんは、今年4月に現地を視察し、新石棺を見て「灰色のマトリョーシカ」と呼んだ。マトリョーシカはロシアの入れ子人形である。新しい石棺で覆っても、放射能の寿命は気が遠くなるほど長い。老朽化すれば、また上にかぶせる石棺を造らねばならない。

 これは何も生み出さない負の事業である。それゆえ事業が巨大であればあるほど、むなしさもまた募り、思いはフクシマに及ぶ。

 限りなく続く人間と核との戦いを象徴する4号炉であった。

ひらおか・たかし
 1927年生まれ。中国新聞記者時代に「ヒロシマ二十年」報道を担当。91年から広島市長を2期務め、現在は旧ソ連の核実験による被害者らの支援活動などにも取り組む。

(2012年10月12日朝刊掲載) 中国新聞
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20121012094100242_ja 

チェルノブイリの今 平岡敬 <下> 廃虚プリピャチ
原発から3キロ 失われた街  
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避難者「精神的支援が重要」

 「本当に美しい街でした。森があり、川があり、若い人が多く、活気に満ちていました」

 プリピャチからキエフに避難してきた人々は、口々に失われた街を懐かしんだ。

 プリピャチは1970年に、チェルノブイリ原発から北西へ3キロばかり離れた原野に建設された都市である。5階、9階、16階のアパートが林立し、約5万人が生活していた。

 86年4月26日未明の原発爆発によって、彼らの人生は一変した。翌27日正午に「3日間ほど街を離れよ」というラジオ放送があった。事故の具体的内容は知らされなかった。避難は午後2時から始まり、ウクライナ各地から集められた1100台のバスが、全住民を運んだ。

 当時10歳だった男性は「3日後には戻るのだ」と思い、遊んでいたテニスボールを持ってバスに乗った。それが住み慣れた街との別れだった。このときの放射線量は毎時30ミリシーベルト以上だったといわれている。

 無人の街は26年の歳月を経て、廃虚と化していた。目に見えぬ放射能がむしばんだ「死の街」であった。

 ホテル、レストラン、エネルゲティークと呼ばれた文化宮殿などに囲まれた広場は荒れ放題。地面のコンクリートを突き破ってポプラの木が生い茂っている。アパート群は窓ガラスもなく、がらんどうである。

 隣接する遊園地では、赤さびた鉄塔に支えられた黄色の観覧車が静止したまま、時の経過に耐えている。朽ち果てた遊具の自動車が数台、無残な姿をさらしていた。

 キエフ・デスニャンスキー地区にある避難者の互助組織「ゼムリャキ」は、プリピャチに住んでいた人たちの心のよりどころである。その事務所で、ともに原発で働いていた老夫婦の話を聞いた。

 プリピャチからの避難者への特別待遇に対して、市民のねたみがあったという。避難者には優先的にアパートが与えられたが、「キエフも汚染されている。不公平だ」と言う市民がいた。またタクシーに乗って、チェルノブイリから来たと話すと「降りてくれ」と言われたこともあった。

 避難者たちは被曝(ひばく)の不安より、その後のストレスの方が苦しかったと訴える。

 いま避難者に対しては年金増額、公共料金は半額、食費補助(約1700円)、保養に行くときの旅費補助など、さまざまな援護策があるが、避難者たちは皆、物質的援助と同時に精神的な支援が重要だと話している。フクシマについては「チェルノブイリの経験を十分に生かしていなかったのではないか」と、批判する人もいた。

 チェルノブイリの事故と福島第1原発事故とは、原子炉の構造や事故原因などに違いがあり、単純に比較はできない。しかし、情報隠しと対策の遅れが被害を拡大した事実は同じである。

 放射線による影響は、答えが出るまでには数十年、あるいは数百年かかるかもしれない。福島の人々を不安に陥れている低線量被曝の将来的影響がよく分かっていないだけに、私たちは26年間に積み重ねられたチェルノブイリの研究や体験を学んで、フクシマの現実に立ち向かうべきであろう。

出典
(2012年10月13日朝刊掲載)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20121015095832195_ja

注1. ソビエト連邦 現ウクライナ ロシアからウクライナに訂正 2012.11.7
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当ブログ
5. 福島原発のゆくすえ(チェルノブイリ)  
   http://lituum.exblog.jp/18204895/
4. 黒い雨 3 http://lituum.exblog.jp/18959657/
3. 黒い雨 2 2012.5.30 http://lituum.exblog.jp/18369946/
2. 黒い雨 1 2012.1.21 http://lituum.exblog.jp/17655052/
1. 東電社員達だけが飲んだ ヨウ素剤 証拠写真見つけた。2012.3.4
   http://lituum.exblog.jp/17909501/

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追加)2013.8.2 チェリノブイリを チェルノブイリに用語統一。

  by setonokaze | 2012-11-06 08:04 | 東電原発事故

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