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2022までに脱原発 ドイツの決断 現地からのレポート #原発

2022までに脱原発 メルケル首相・決断の 裏側 /報道特集 3月24日

脱原発がドイツでは出来たのに、なぜ日本では出来ないのか。

今、日本では脱原発どころか、「福島の痛みを皆で分かち合おう。」と
野田総理、細野大臣がガレキ、ガレキの一大キャンペーンをはじめている。
安全安心なガレキだから全国の民間処分場も協力せよと言うのだ。

焼却灰が最大8000ベクレル/kgもあって、
これを民間一般ゴミと同じ最終処分場に永久処分することを
ほとんどの国民は知らないのではないか。
核の最終処分場は日本にはまだない。
細野大臣は除染で出た放射性廃棄物について、中間貯蔵地すら確保出来ないでいる。
しかも、最終処分地は決められていない。

なのに、
世界でも例を見ないガレキ、核廃棄物の全国拡散、永久処分は 
どのマスコミも、何故か取り上げない。
原発問題がガレキ,ガレキですっ飛んだ様に見える。
原発推進派の思うつぼだ。

それに比して
ドイツには先見の明がある。さすがの環境先進国だ。
日本は何故かドイツと真逆だ。
野田政権になってからさらにひどくなった。
原子力ムラの顔色ばかり伺っているからだろう。
国民の方を向いていないのは間違いない。
ドイツの脱原発に学ぶべきだ。



(書きおこし by lituum)                  引用
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2022までに脱原発 メルケル首相・決断の 裏側 /報道特集 3月24日

原子力安全委員会が昨日大飯原発のストレステストの審査を認めるなど、日本では原発の再稼働に向けた動きが進んでいますがドイツはこれとは正反対に2022年までの脱原発をいち早く決めました。それを決めた張本人はかって原発の推進派だったメルケル首相です。彼女の考えを変えさせたものは一体なんだったのでしょうか。ドイツで取材しました。

古いエレベータを降りると、使われなくなった原子力発電所のかっての心臓部コントロールルームに案内された。特別に撮影を許可すると言う。稼働していた頃は4人が常駐していたこの部屋には今は1人だけ。廃炉作業の管理業務を行っていた。東ドイツの主力原発に設置されていた計器はどれもアナログだった。この旧グライフスバルト原発は17年間稼働しただけで、東西統一後安全性への疑問が持ち上がり閉鎖が決まった。解体作業は閉鎖から17年たった今も続いている。残っているのは高レベル放射性廃棄物の処理の問題です。580トンはここの倉庫にあるので、将来最終処分場に移動しなければなりません。

日本と同じでドイツでも高レベル放射性廃棄物の最終処分場は決まっておらす、この付近に倉庫を作って保管していると言う。タービン建屋だった場所に入ると、ここでも脱原発が進行中だった。海に設置する風力発電の基盤を作っていたのだ。2022年までの脱原発を決めたドイツ。決断したのはメルケル首相だが、実は彼女は長年原発推進派だった。舵を切った瞬間なにがあったのか。

アンゲラ・メルケル首相は1954年当時の西ドイツに生まれた。父親の仕事で幼い頃東ドイツに移り住み放射線を扱う物理学者になったのだ。東西ドイツが統一されると政治家に転身する。核技術に対しては信頼を置いていて、コール政権で環境大臣につくと、温室効果ガス削減の為に原発推進を支持する。だが1998年社民党とみどりの党との連立政権に交代。シュレーダ首相は脱原発の方針を決定する。その後、キリスト教民主同盟のメルケル氏が政権を取ると2010年前政権の脱原発方針を撤回原発稼働の延長に踏み切った。国民はこれに敏感に反応した。1970年代からドイツには原子力40年戦争と呼ばれる激しい抗争があったが、反原発派の勢いが再燃始めたのだ。

私たちは反原発運動の盛んなドイツ北部のゴアレーベンに向かった。核廃棄物の中間貯蔵施設正面には三重のゲートがあった。ゴアレーベンには高レベル放射性廃棄物の最終処分場の候補地があり、反対派は核のゴミが持ち込まれることに抗議してきた。去年11月にも高レベル放射性廃棄物が運び込まれる際、数百人のデモ参加者が線路を占拠するなどしてろう城した。だが警察側には手を出さずこの運動の特徴とされる「非暴力直接行動」を貫いた。

施設近くの森には大きなXの文字が掲げられていた。反原発派の拠点だった場所だ。私たちはそんな反原発運動の先頭に立ってきた87才の女性を訪ねた。ドイツで反原発の母として尊敬されている人物だ。ドイツの反原発の先頭に立ってきたマリアンネ・フリッツエンさん87才ドイツでは反原発の母と呼ばれている。これは33年前、当時55才だったマリアンネさんの写真だ。マリアンネさんは最近反原発運動を写真やポスター、グッズで振り返る資料館を作った。2002年に脱原発を決めたシュレーダー元首相の若い頃反原発運動に参加していたのだと言う。
反原発派のシンボルとなったこの地はやがてヴェントラント自由共和国といわれ、マリアンネさんは半分冗談でそのパスポートを発行してきた。反原発運動の資金を集めようとマリアンヌさんたちは農民たちの裸のカレンダーも作成した。一見ユーモラスだが込められたメッセージは真剣そのものだ。万が一、ゴアレーベンで福島の様に何か起ったら私たち農家は土地も何もかも失います。裸になるのです。マリアンヌさんはゴアレーベンが最終処分場のリストから外れるまで活動を続けるという。 活動を続けていて一番うれしいのは皆友達や家族みたいになったことね。

ドイツの各地で散発的に続いてきた反原発運動を全国的ネットワークで結びつけたのは巨大な環境NGOだった。その一つグリーンピースを訪ねた。本当に大きな動きになります。一度始まれば参加者たちは面白かったと感じてくれます。一緒に運動して皆で何かを動かせると実感できるのです。政治を動かせますからこれは火と同じで点火するのは難しいのですが一度付けたら大きくなるのです。音楽やバスツアーを用意するなど家族で参加出来るよう工夫することでデモは巨大化したという。でも時には多くの人に危険だと訴える必要があります。一線を越えなきゃならない場合もあります。
例えばもし事故の前に福島原発に柵を越えて入り「この原発は津波に堪えられない!」と叫んでいたらどう評価されたでしょう。

だがデモや抗議運動だけでは実効性が足りないとして反原発運動は政治活動へと発展して行った。1980年に「緑の党が誕生」3年後には連邦議会に議員を出す。結党から18年でシュレーダー政権の一角を担い、脱原発を押し進める役割を果たした。緑の党の現在の党首クラウディア・ロート氏に取材を申し込むとなんとジーンズ姿で議員会館に現れた。「なぜこんなにその新しい政治的スタイルを作り上げて世界的規模に影響力を及ぼすまでに支持を得続けているのでしょうか。」

「私たちは30年以上かけて国民の信頼を得てきました。脱原発をと叫ぶだけでなく再生可能エネルギーの方向に進むべきだと主張して取り組んできました。ここ数年の反原発デモがなぜこれ程巨大化したかと言えばもう雇用は原発産業にはないからです。一方再生可能エネルギーの分野では既に35万人分の雇用が生まれています。私たちは環境と経済、エコロジーとエコノミーを結びつけたのです。」環境を重視したドイツの教育も反原発運動を支えてきたという。「原発と言うことについて学校の教育あるいは教育が果たすべき役割は何だと思いますか。」私たち人間は環境と経済成長そして技術の進歩との関係を見直さなければなりません。ましてや福島の様な大災害の後ではなおさらです。

「見えない雲」というすばらし映画があります。原発事故になればどんな被害がもたらされるか結果も考えずに進歩したらどんな被害がもたらされるかを教えてくれます。逆に電力会社の人達が原発は危なくないと安全神話を煽ってきたのは国民に対する犯罪行為です。
チェリノブイリ事故の翌年ある小学校教師が書いた「見えない雲」原発事故を扱った小説で150万部読まれ映画にもなった。放射能で汚染された雨雲から少女が弟と逃げようとするが逃げ切れず被爆する様子が描かれている。ドイツの中学校などではこれを題材にした授業も行われていると言う。

ドイツの公立小学校では原発のことをどう教えているのか。6年生の国語の授業で行われていたのは環境問題を考えるカレンダー作り ここに原発が登場していた。先生「貴方たちは原発のことを考えて反対なんですね」「ドイツは福島の事故にどう反応しましたか?」生徒「まず7基の原発を停止しました。」そして「2022年までに全てを止めます。」「はいよく覚えていますね。」描き上がったカレンダーを少年たちが発表した。「絵の上の部分は原子力発電所です。」「原発はよくありません。福島のことを思い出せる様に描きました。人々は悪いものを吸い込まないようマスクをしています。下には太陽光は勇気をくれると書きました。太陽光と一緒に良い生活ができます。緑もたくさんあって皆でピクニックをしています。」この日は一日中地球環境をテーマにしたプロジェクト型の授業だった。最後は英語で自然を大切にしようと言う歌を合唱した。

国民の環境問題への意識の高さもドイツを脱原発へと向かわせる重要な要素となった。ドイツではメディアも原発に対して長年懐疑的であった。想定外のリスクは何か?最悪の場合何が起るのか?常に探ろうとしてきた。例えばこの新聞社(日刊紙taz)は福島原発の水素爆発の際には写真を1面に載せ見出しをこう掲げた。「これが想定外のリスクだ」日刊紙tazインゴ・アルツト記者「ソ連でもなく25年前でもありません。日本と言うハイテク先進国での事故でした。いつでもドイツで起こりうるのです。」

原発推進派だったメルケル首相はこの爆発で脱原発に一気に舵を切った。彼女の口から「これで終わった」と直接聞いたジャーナリストがいる。(シュピーゲル ディルク・クルプユバイト記者) 彼女は爆発でショックを受けてこれまでの自分の原発への考え方に疑問を持ちました。原発の安全性に信頼を置けなくなったのです。彼女は国民を守らなければと思いました。ドイツ人は自然の問題にとても敏感だと言うこともあります。原発にこだわれば選挙で全て失うことを知っていたのです。メルケル首相と親しいトプファー元環境大臣は彼女の心境の変化をこう解説してみせた。メルケルは福島の事故を「新しい情報」だと捉えました。これに古い答えで対応してはいけないと考えた訳ですが場合によって意見を変えるのは政治の責任だと思います。でも国内でものすごい批判に曝されることになりました。メルケル首相は事故後すぐに7基の原発を停止した。しかしそれでは不十分だとして、3月26日には25万人ドイツ史上最大の反原発デモ が発生。ドイツの脱原発は重要な局面を迎える。

その頃日本では(枝野幸男官房長官(当時)2011年3月25日)「20キロから30キロの区域では万が一にも健康に・・・」日本政府は原発から半径20キロから30キロ圏内の住民に自主避難を要請。エネルギー政策の議論どころか、事故の対応に追われるばかりだった。そして、ドイツでは地方選挙でメルケル首相の予感が的中した。福島の原発事故から2週間後に行われたドイツの地方選挙メルケル氏の率いるキリスト教民主同盟に変わって大躍進したのは「緑の党」だ。

メルケル首相は6月9日ドイツ連邦議会でこう発言してドイツの原子力戦争にこう発言して自ら終止符を打った。「今日はっきり申し上げます。福島の原発事故は原子力に対する私の態度を変えました。」

ドイツの脱原発運動が成功したのは「市民運動」や「緑の党」「教育」や「メディア」などさまざまな要素がダイナミックに作用したからだと歴史家のラートカウ氏は語る。ドイツの反原発運動は精神的政治的な孤立状態から抜け出すことが出来たのが大きかった。脱原発運動では忍耐強く専門知識を得て孤立しないように注意してネットワークを結ぶことが大切です。そうすれば日本にもチャンスが来ます。遠くから見ると日本は一風変わった国で・・に対する強い意識がありますが一方で変わらなければならないという認識に至と、とても過激な方法で変わります。明治維新もそうでしたよね。

去年17基のおよそ半数の原発を停止して脱原発に向けて動き出したドイツの電力事情についてなんですが、電力の輸出入が盛んなヨーロッパの統計があるのですけれども7基を停止した3月以降夏までは赤字でつまり電力輸入の方が多かった訳なのですが、秋10月からは好天が続いて太陽光発電ものびて再び黒字になって1年間トータルでは電力輸出の方が多かったと言うことなのですね。
よくね、ドイツは外から買っているんじゃないか、だから出来たのだ みたいな論議がありますが実は現実的には売っているんですよね。外に対してね。

それにしても脱原発に向けたドイツの向き合い方と日本と言うのは正反対の方向に今行っていて日本の方は昨日も安全委員会がストレステストを審査が認めて後は政治判断となっていますけれども、どこまで向きが違うのか僕は現地で取材していて非常に心に残りましたですね。

ドイツ日本の違いと言うことで言いますとVTRでご紹介しましたドイツの公立小学校では来年の6年生は核のゴミの中間貯蔵施設ゴアレーベンに遠足に行くと言うことで日本にも同じ様に放射性廃棄物の問題はあるのですが具体的にそこまで教わらないですよね。教わると意識もちがってくるのではないかと思いますね。
どうしてドイツが正反対の方にいってしまったのか色んな理由があると思うのですよ。例えばチェリノブイリが陸続きであったとか 3月10日の報道特集でもお伝えしたのですけれども、メルケルさんの一番すごい所は倫理委員会を招集するのですよ。その中には原子力の専門家は一人も入っていなくて、原発の存続を決めるかどうかは倫理の問題なのだという。そこを持ち出したと言うのはとてもすごいことだと思っていて、日本の原子力委員会とか保安院まかせで後は政治判断と言う風にいつて、たいぜんとしている状況とは全く深さが違うという印象を受けましたですね。
                                         (終)

  by setonokaze | 2012-03-25 11:31 | 東電原発事故

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